2006年06月19日

「新興宗教について」のサイトについて

はてブで以下のようなサイトが人気サイトに上がっていた。

新興宗教の誤りを明かす…総論

このサイトを全部見たわけではないが、これが新興宗教で如何わしい物であるとするならば、ほとんどの既存宗教は如何わしい代物である。
まず、このサイトの新興宗教の定義は以下のようにある。
●新興宗教の発生形態
通常の既成宗教の場合、まず教え(教典・教義)が先にあって、それを人々への救済理念として形成されました。
しかし新興宗教の場合はある意味この逆で、まずは教祖となる人物が神や仏の啓示を受けたと自称し(いわゆる神懸かり)、その人物をカリスマと崇(あが)めながら何年か経って教義らしきものを作って体系化し、教団組織の体制を整えていくのが一般的です。
ある本によると、今どきの新興宗教は、
・カリスマ的人間を仕立て上げる
・人間真理の弱点を脅(おど)す
・弱者の論理にあくまでも迎合し、なぐさめる
・現世利益をうたう
・超能力現象を見せる(手品でよい)
というような感じで出来上がるそうです。これは実際に、東京都下で勢力を伸ばしている中堅教団の教祖がその本の著者に、教団を開設するに当たっての信条を語った本音です。新興宗教とは、所詮はこういうものなのです。
新興宗教の誤りを明かす…総論

何を持って「通常」なのかは分からないが、確かに仏教は、「法前仏後」(神・仏の前に自然の法則がある)である。法(ダルマ)が存在し、釈迦はその法を悟り、その悟りに導くための教えを説教された。故に、釈迦は存在しようがしまいが、依然として法はある。
だからといって、逆ならば如何わしいという理屈にはならない。
イスラム教、ユダヤ教、キリスト教などの一神教は、神からの啓示を受け(神との契約)、その啓示を人々に広めるために、教会や修道院が体系化したものだ。確かにこれらの宗教は、人物をカリスマ(救世主)としているが、信仰の対象ではありえないが。(キリスト教においては三位一体であるが)しかし、マリア信仰や、その他原始宗教(自然崇拝等)は、神懸かり的な神託を受ける儀式が存在したりするではないか。
そもそも、初期の仏教は先に記したように「法前仏後」が原則であるが、日本における現在の仏教は明らかに釈迦や如来にを信仰する為の教義が多い。(如来にすがり救済を得ようとする)
従って信仰する宗教を広めるために、教義を後から体系化するのはどの宗教を見ても同じことであり、新興宗教に関してのみ言えることではない。

・カリスマ的人間を仕立て上げる
先にも記したが、カリスマ的人物を信仰するにせよしないにせよ、便宜上教義の中心に来るのは仕方がない事である。この記事では、「釈迦をカリスマとして信仰している訳ではなく、あくまで法を悟るために信仰している」というのならばまだしも、悟りを開いた釈迦を信仰しているのではないのか。人間であるか、神や仏であるかは別にして、歴史を語るときに主要人物がいるのと同じように、教えを広めるために主要人物がいるのは当然である。
・人間真理の弱点を脅(おど)す
・現世利益をうたう
これも既存宗教と同じである。元来、仏教に極楽浄土や地獄といった実在は存在せず、あくまで輪廻転生から涅槃に入る為に修行する訳である。したがって、「極楽浄土」や「地獄」などは、喩え話である。しかし、日本に仏教が伝来して、農民以下下層階級に信仰が浸透してゆくときに、かの有名な「南無阿弥陀仏」または「南無妙法蓮華経」を唱えるだけで「救われる」とした。逆に言えば、信仰しなければ「救われない」のだ。脅す脅さないとは相対的であるが、このサイトで如何わしいとされている新興宗教が「病気になるぞ」や「事故にあうぞ」という脅しと、「悟りを開けない」「極楽浄土にいけない」という脅しは、現世か未来においてかの違いだけであり、脅しと受け取られる可能性があるのは同じことである。
大体、信仰とは魂の救済を得る為や、一切の苦から脱却する為にあるものなのだから、信仰しなければ救済は得られない、または苦から脱却できないとなるのは当然のことである。
・弱者の論理にあくまでも迎合し、なぐさめる
これも同じである。
現代における弱者と、歴史における弱者を単純に比較するわけにはいかないが、仏教とは本来個人の悟りによる為の教えを、大乗仏教は誰でも彼でも救済すると説いた。仏教を追求すれば、個人救済しかありえない訳だが、それでは農民や、商人等、修行や釈迦の教えを研究だけしてれば死んでしまうような人々を取り込むことはできないからである。
・超能力現象を見せる(手品でよい)
まず心構えとして「宗教は神秘的・奇跡的なものだ」などと思わないことが大切です。教祖の霊能力なんて、ほとんどウソ八百か妄想だし、超能力なんて手品を見せれば充分なわけです。もし百歩譲ってそれらの能力が実際のものだったとしても、そんなものは人々の根本的な幸・不幸にはまったく関係のないものですし、信仰の対象として完全に除外すべきです。
新興宗教の誤りを明かす…総論

「超能力現象」を「手品」と断定しているところがよく分からないが、超能力現象や神秘体験は本来信仰の対象にならないはずなのに、それを信仰の対象としているところが如何わしいだけである。奇跡が如何わしいとなると、イスラム教やユダヤ教、キリスト教のイエスによる奇跡など全て如何わしい事になる。(奇跡を証明する為に、かなりの議論と論理が必要らしいが)
仏教は「奇跡」は否定しているが、神通力と呼ばれる、修行の過程で得る力とされている力はどうなるのか。(詳細は忘れた)
問題なのは、私利私欲の為に、その「力」のみを信仰する事であり、逆にその「力」を信仰させようと売りにする教義であるとするならば、同意できる。このサイトは仏教系なので「奇跡ありき」という事は否定するのは当然だし、あくまで「因果律」によってこの世はできているとするのもまた当然であるが、「神ありき」とされる、啓典宗教もまた存在し、世界宗教となっている事も事実である。(予定説)
仏教の癖に、予定説や奇跡信仰をしていたり、プロテスタントなのに因果律を教えたりする事は、仏教であって仏教でなく、プロテスタントであってプロテスタントでないという意味で如何わしい訳なのだ。

ちょっと長くなってきたのでこの辺で終わるが、既存宗教だから正しくて、新興宗教だから如何わしいという理由は成り立たないという事が言いたい訳であり、その意味でこのサイトにおける「胡散(うさん)臭い存在」であるとされる定義は、あまり指針にならない。
posted by suVene at 11:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教系 このエントリーを含むはてなブックマーク